ほんとーく

本について語ることは基本的に楽しい。お気に入りの本のことや、読んだ本にまつわる記憶や
著者へのこだわりを、たまに誰かと一緒に共有したくなる。
というわけで、ボーダーインクの本に限らず、県産本やら、いやいろんな本をネタにして
あれこれと、ユンタクヒンタク(ハッピー・トーク)してしまおうというのが、このコーナー。
「ここだけの話」ということなので、すぐに脱線していまいそうだが、そういうのもよし!

2014年09月19日

ほんとーく 池城かおり(第1回)

 

 

 

子ども向けの絵本図書室を作ったので、「子どもと絵本が好きなんですね」と優しい笑顔で言われること度々。どうお返事しようかな、そう思われて当然なのだけど・・・。冒頭から不穏な雰囲気をまとって申し訳ないです。いえいえ、私は子どもも絵本も、好きです。でも、私はこうお返事しています。「図書館が好きなのです」

 

 

絵本図書室の名前は「ありんこ文庫」。利用対象は0歳から小学生で、絵本・児童書約500冊を所蔵しています。詳しいことはブログをご覧いただくとして、「ほんとーく」では、スキスキトショカンな話を徒然なるままに書いてみます。

 

(ありんこ文庫室内)

 

 

私が小学生の頃によく通っていたのは、近所の公民館の図書室でした。ここで過ごした記憶があまりにはっきりしているので、図書館好きはここから始まっているのだと長い間思い込んでいましたが、絵本に親しみ始めたことをきっかけに、もっと前の記憶がだんだんに思い出されてきました。行き着いたのは、叔父が私に絵本を読んでいる場面です。2−3歳頃でしょうか、小さな私は膝にちょこんと座って、父によく似た叔父の声を、もの珍しく聴いていました。叔父は遠方に暮らしていて私自身は慣れておらず、緊張していたのと両親に絵本を読んでもらった記憶がほとんど無いので、戸惑いもあったと思います。記憶の場面はとんで、今度は4歳くらいの頃の夏、従姉たちと駆け回っていたとき。目が開けられないくらい眩しい日差しの中、木陰をくぐって着いたのは、平一小学校の図書室でした。厳かな佇まいに圧倒されて、従姉たちの後ろにくっついて中に入りました。私よりも背の高い子ども向けに設計された机や、本棚を見上げていました。従姉たちは次々と本を選んで、貸出手続きをしていました。私ももちろんできると思っていたのに、「かおりちゃんは小学生じゃないからだめ」と従姉に言われて、ショックと悔しい思いをしたのでした。その頃は市立図書館の存在を全く知らず、両親も図書館に通う習慣はなかったので、従姉の発言を信じるほかありませんでした。図書室で本を借りることができるのは一人前の証のような気がして、当時の私にとって、とてつもない憧れでした。

 

5歳になって、母親の友人のすすめでガールスカウトに入団することになりました。活動日は毎週日曜の午前中です。場所は公民館でした。活動を終えて、帰ろうと出口にさしかかったとき、奥に伸びる薄暗い廊下を目にしました。誘われるように進むと、小さな部屋がありました。ガラス戸の先に本棚が見えます。そこは図書室だったのです。事務室は隣にあり、職員の姿もありましたが、小学生未満の私のことを気にする様子はありません。

 

(公民館の中庭)                       (公民館のハイビスカス)

 

そのときの私の気持ちを想像いただけますでしょうか。静かに喜びに打ちふるえていました。(わーい、と騒ぐとすぐにつまみだされると思いました)

 

かくして、私は最初の自分のトショカンに出会うことができました。この場所に大いに甘えて甘えて過ごせたことは幸運でした。その後のマニア道まっしぐらな話は次回に書きます。

 

 

 

 

池城かおり

1979年。宮古島市平良生まれ。

宮古高校、東京農業大学応用生物科学部卒。

日本科学未来館に勤務後、2008年に帰郷。

現在は絵本図書室ありんこ文庫代表、NPO美ぎ島アーカイブ代表を務める。

宮古島市立図書館協議会委員、沖縄県立図書館協議会委員。

http://ikeshirokaori.tumblr.com/

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2014年09月05日

ほんとーく 中嶋栄子(第3回)

 

 

 

沖縄の出版社の3つのあるある       中嶋栄子

 

1.「就業時間を過ぎると、飲み屋になる。」

 

 とある出版社は、金曜日の就業時間を過ぎると、飲み屋にトランスフォームするらしい。

PCに向かっていた編集者たちがささっと立ち上がり、イソイソしだすと、日中とは違う活気に満ちてくる。いつもは資料が無造作に置かれている来客用テーブルの上が片付けられ、いつの間にやら簡易ガスコンロが置かれ、鍋が置かれ、取り皿が並び、箸も添えられる。つまみとなるお菓子の袋がやぶられ、真ん中にはシマーや氷がドンと鎮座まします。

それらを用意するのは、チイママと化した女性編集者たち。仕事以上に手慣れた様子で、出版社から飲み屋に変身する準備が着々と進む。そこへ料理上手として知られる外注スタッフ(テープ起こし等原稿整理担当)が食材抱えてやってきて、これまた勝手知ったる台所でつまみづくりがはじまる。ちなみに飲み代は、差し入れ歓迎のイチャンダ(無料)だ。

 夕闇があたりを包む頃、三々五々と客がくる。たいていは編集者たちの友人知人や仕事関係者。なかにはたまたまその日、その出版社に遊びに来てた観光客がいたりして

「わぁっ、さすが、南国沖縄の出版社! 夜になると飲み屋になるんですね!!」

 いやいや、沖縄の出版社のなかでもたぶんここだけだと思います。

 

2.「年に一度、女性がいなくなる日がある。」

 

 とある出版社では、年に一度、女性社員がごっそりといなくなるらしい。

もしや待遇をめぐって女性全員出社拒否か!? いやいや、それは旧暦3月3日の浜下りの日だからです。女性はその日、海へ行って身を清めなければならない。とはいえ、それを忠実に守る会社はまれだ。

浜下り当日、その出版社の女性たちは男性社員を会社に置いたまま、車に乗って海へGO! 手には熊手やらバケツやらビニール袋やら。身を清めるよりも、エモノ(貝)を採る気満々、目は爛々である。そんな殺生を行っても、海にいると身は清まっちゃうから、不思議だ。

夕方前に女性たちは意気揚々と帰社。早速各自採ってきたエモノが集められ、調理が行われる。食べるときはもちろん、大人しく留守番してた男性社員も一緒だ。そして、終業時間を待たずして宴会がはじまるのであった。

 

 ちなみに、浜下りにはこんな伝説がある。

「ある娘のところに、夜な夜な通ってくるイケメンの男がいた。しかし、いったいどこの誰だかわからない。ある夜、男の着物に糸を通した針をこっそり刺し、翌朝、その糸をたどってみると、なんと男は大きなアカマターだった。そのとき、娘はお腹にアカマターの子を宿していたため、海に入って禊をし、子を流した」

その後、ウチナーの女性は不本意な妊娠をしていなくても、海で身を清め、一年の厄を祓うようになったという。

お隣の韓国にも似た話があるが、相手の男はアカマターではなく、大ミミズである。娘は大ミミズの子を流さず、男の子を産む(相手がミミズでも不本意じゃなかったのね。もしかして、ヨン様似のミミズだったとか?)。子どもは甄萱(キョヌォン)と名付けられ、長じて後百済を建国する英雄となった。アカマターの子ももし生まれていたら、第三尚氏になったかも・・・?

 

3.「社員に対してゆるい。」

 

 出版業界は、原稿締切やら印刷入稿やら納品日やら、やたら日時制限が多い。当然、出版にたずさわる編集者たちもしっかりみっちりきっちり時間に管理されていると思いきや、

とある出版社は、なんだかゆる~いらしい。

その会社へ「○○さん、いらっしゃいますか?」と、電話するとしよう。

「ただいま、外出しております」

「何時頃お戻りに?」

「さぁ・・・? 戻ってくるときに戻ってくるさぁね」と、明るい声が返ってくる。

 これは、この会社がルーズなのではない(きっと、たぶん)。1人ひとりの自主性を重んじており、また行動を管理することで編集者としての自由な発想が阻害されることを懸念しているのだ(きっと、たぶん、もしかして)。さらにいえば

「どうせ、携帯に電話したらつかまるでしょ」

 そりゃそうだ。

 

 さて、この3つのあるあるは、実はすべて1つの出版社のことである。その名は、ボーダーインクという。

 

 ボーダーインクは、遊んでるばかりのルーズな会社では決してない。県産本ネットワークの事務局を無報酬で引き受けているなど、沖縄出版界全体の活性化も重要視し、その活動は自社の利益追求だけにとどまっていない。とはいえ、眉間にシワを寄せてムシ熱く出版論を語るでなく、自分たちで社歌つくったり、社内バンドつくったりしながら、「出版にまつわる沖縄文化全般」を楽しんでいる会社だ。

 

 私はそんなボーダーインクにほんの装丁をさせてもらったり、イラストを書かせてもらったり、就業時間以降の飲み屋「クラブ・ボーダー」や浜下りに誘ってもらったり、タマナー(キャベツ)をもらったりした。

実は、ボーダーインクの経営が決して楽でないときも、仕事を出してもらっていた。沖縄に地縁血縁をもたず、1人暮らしをしていた私にとってそれがどんなにありがたかったか、いまでも感謝の言葉は尽きない。

 

 

(県産本ネットワークで催してもらった私の送別会)

 

 

 

プロフィール

なかじまえいこ。フリーライター。21年半暮らした沖縄を、今年5月に引き上げ、ただいま実家のある富山県南砺市在住。久々のふるさとで、浦島太郎的生活を送っている。

 

2014年08月19日

ほんとーく 中嶋栄子(第2回)

 

ほんに関する3つのこと 中嶋栄子

 

1.「ほんは紙でできている。」

 当たり前だけど、ほんは紙でできている(電子書籍もあるけどさ)。

「このほんにはこんな紙をつかいたい」と印刷会社に指定するとき、紙の厚さも注文する。その際、A4サイズ1枚であっても「00㎏の厚さのものを」という。なぜ、A4サイズたった1枚でも「㎏」というのか。金の延べ棒だってそんなに重くはあるまいに(持ったことないけどさ)。

そのワケは、紙の厚さは(A4に切り分けられる前の)全版サイズの千枚単位で、重さをいうからである。

 さて、紙の種類は多種多様にあり、なかにはオシャレな名称がついているものも。

漫画家の高口里純氏の1980年代の作品に『EX-MEN(エクセレント・メン)聞いて』というのがあった。ニューヨークを舞台に、性格の悪いトップモデルが騒動を引き起こすといった内容で、その登場人物の名前のほとんどが、なんと紙の名称だった。

主人公の名前である「マーメイド」は、表面に凹凸のある紙。彼にちょっぴりあこがれている刑事の「レザック」。この紙は報告書などの表紙によくつかわれる。ほかにも「ミューズ・エディ」「コニーラップ」「ケント」等など。

ちなみに、ほんにつかわれる紙の多くが光沢のないマット系の紙で、そんな名前の俳優(マット・ディロンとか)もいるよね。

 

2.「ほんには文字がある。」

 11世紀に中国で活版印刷が行われて以来、20世紀半ば以降まで、ほんの文字は活字でできていた。活字は、印刷する版に組み込むためのハンコのようなもので、鉛でできていた(と思う)。これがサイズごと、フォントごとに壁一面に並び、職人がそこからひと文字ずつ選び、版となる木枠のなかに組み込んでいく。

漫画家のますむらひろし氏の『銀河鉄道の夜』には、主人公のジョバンニが、寝たきりのお母さんのために活字を組む仕事をしている様子が描かれている。

 その後、文字は写真植字(写植)へと変わった。これはガラスでできた文字盤を、カメラを内蔵した機械で、ひと文字ずつレバーを押して撮影し、印画紙に焼き付けるというもの。現像した印画紙を紙の上に切り貼りして、印刷のもととなる版をつくった。これを版下といった。この版下をつくる作業は大変繊細な正確さが求められたため、職人は0.25mmというわずかなズレさえ見分けられる目を持っていた。

 1990年代頃からPCが主流になり、文字は、職人ではなく、著者本人が打つようになった。そのデータがそのままPC上で、印刷の元版をつくった。そのため、活字や写植は姿を消し、同時に、0.25mmのズレを見分けられる職人もいなくなった。

 

あるとき、そんな話を当時、沖縄在住だった作家の池澤夏樹氏にしたことがあった。

「せっかく培った技術や職人技が機械化のために失われていくのはもったいない」と、私。そうだ、そうだと、相槌を打ってくれる池澤さんに気を良くして

「原点に戻って、ガリ版でほんをつくるのもおもしろいかも」

「いいねー。だったら、僕、ガリ版刷りのための原稿を書くよ」

 そのとき、なんてノリがいいというか、なんて原稿発注のしやすい芥川賞作家だろう、と思った。

 

3.「ほんは着物をまとう。」

 ほんを買うと、内容のキャッチコピーが書かれた紙が、そのほんにぐるりと巻かれている。これは業界用語で「オビ」というPOP(購買時点広告)だ。ちなみに、天井から細長くたれさがっているPOPは「フンドシ」といい、レジに巻かれているのは「コシマキ」という。こんな用語を考えたのは、おジョーヒンさにかけてはどっこいどっこいの広告業界か、出版業界かは定かではないが、「紙」のテリトリーに、「布」の名称を引き入れたのはおもしろい。いっそのこと、表紙を「キモノ」、中扉を「ナガジュバン」というのはどうだろう。で、奥付は「ゾウリ」で、しおりは「ハンエリ」で、ブックカバーは「ミチユキ」で・・・って、誰か早く止めてーっ!

 

さて、東日本大震災で被災したなかに、宮城県石巻市のとある製紙工場があった。書籍用の紙をはじめ、年間100万tもの紙をつくっていた。震災により工場は泥や瓦礫に埋まり、多くの電気設備が水に浸かったという。しかし、「俺たちは出版を支えているんだ」という従業員たちの自負心が、わずか半年で生産を再開した。

ほんは紙でできているという当たり前のことを、必死で守った人たちがいた。

 

 

(オビに書かれたキャッチコピーの数々。泣いたり笑ったり、叫んだりと、なかなか忙しい)

 

 

プロフィール

なかじまえいこ。フリーライター。21年半暮らした沖縄を、今年5月に引き上げ、ただいま実家のある富山県南砺市在住。久々のふるさとで、浦島太郎的生活を送っている。

2014年07月31日

ほんとーく 中嶋栄子(第1回)

 

 

今回から富山在住のフリーライター中嶋栄子さんに<ほんとーく>していただきます

 

 

ほんに関する3カ条

 

 

1.「ほんは本屋さんで買う。」

 

当たり前のようだが、これがなかなか難しい。私の好きなほんを取り揃えている本屋さんを見つけるのが大変なのだ。

那覇にいる頃はよかった。ジュンク堂では、たいていのほしいほんが手に入った。ずらりと並んだ本棚を見て歩くだけでもどきどきし、私にとって同店は「家から歩いて通える、ほんのテーマパーク」だった。

ジュンク堂ができる前までは、沖縄で手に入らないほんは、東京出張を利用した。夕方からの懇親会を、体調不良を理由にとんずらし(もうバラしても時効だよね)、その足で紀伊國屋書店に駆け込んだ。帰りは買いだめしたほんで荷物がぎっしり重くなり、青息吐息。それを見た周囲の人が

「かわいそうに。まだ体調が悪いんだね」

懇意にしていたマチグヮーの古本屋さんには、私の好み(弱み?)をしっかりつかまれていた。店主は上目づかいでほくそえみながら、よくこう言ったものだ。

「なかじまさんの好きそうなほんを仕入れといたからね。早く買わないと売れちゃうよ。ぐひひひ」

このときの私の気持ちは、蛇ににらまれた蛙ならわかってくれると思う。

 

2.「ほんは立ち読みしてから買う。」

 

新聞の書評などを読んでどんなに興味がわいても、実際、ページを開くと「なんか違う」「あんまりおもしろくない」と思うことがある。なので、事前に中身を確認できない通販は基本、利用しない。アタリハズレを防ぐためにも、ほんは必ず立ち読みしてから買う。

 ひと昔前までは「立ち読みにはハタキ」が活用された。東京のとある本屋で熱心に立ち読みしていると、頭の上を何かがパタパタ。「うーん、うるさいなぁ。いいとこなのにジャマしないでよね」。そのまま読み続けていると、今度は開いたページの上をハタキがパタパタ。「あら、ご親切にホコリを払ってくれてるのかしら」と、ハタキの先に目をやると、ものすごい形相をした店主と目があった。すぐさま、そうっとほんのページを閉じて元の場所にしまい、そそくさと逃げた。夜にそのときの店主の顔を思い出すと、トイレに行けない。

いまでは本屋によっては立ち読み用の椅子(あ、この場合は座り読みか)が設置されているところもある。時代は変わった。

 

3.「訪れた先では、まず本屋へ行く。」

 

 他の地方や外国へ行った際、状況が許せば、必ず本屋さんへ行く。その土地ならではの日常の社会や文化が垣間見えるからだ。

 台湾・台北市の本屋さんでは中国語(繁体字ではあるけれど)で書かれたダライ・ラマ14世関連の書籍コーナーがあった。中国大陸では決してお目に欠かれないことだ。空港の本屋さんには簡体字(中国大陸で使われている字)と繁体字(台湾で使われている字)の対照ミニ辞典があったが、まちなかの主要本屋さんではついぞ見かけなかった。「空港」でのみ売られているというところに、独立はしたいが中国との経済交流もしたいという台湾の微妙な立場を思った。

 中国大陸の地方都市で見かけた本屋さんは、たいていがデカイ。4、5階建てで、「書店」ではなく「書城」というところもあり、まさに「ほんのお城」だった。古書のコーナーでは古銭や古切手も扱っており、ちょっとした骨董屋の雰囲気。参考書のコーナーでは地元の小中学生らが本棚に寄りかかったり、床に座ったりして宿題をしていた。販売している参考書は子ども達の立ち読みのせいでボロボロ。それでも店側は立ち読みを止めさせるでなく、その本を売るのを止めるでなく、「いくらボロでも必要だったら買うでしょ」の体なのであった。

 さて、私は行ったことがないが、国会議事堂内に1軒の本屋さんがあるらしい。在庫数は約1万冊。店頭に並ぶのはいまほんではなく、政治経済に安全保障や集団的自衛権、領土問題など。

新人議員が店主に「どんなほんで勉強したらいいですか?」と聞くと、

「勉強してから政治家になれよ」

むべなるかな。

 

5月に実家のある富山に戻ってから、まだお気に入りの本屋さんにはめぐり会えていない。故郷のまちはとってもイナカーだ。近所に2軒の本屋さんがあり、ひそかに「猫のひたい書店」「雀のなみだ書店」と呼んでいる。こうネーミングすると、まるで宮澤賢治の童話に出てきそうなかわいらしさが漂うが、在庫数が極端に少ないという意味で、残念なかわいらしさである。かろうじてTSUTAYAが隣市にあるが、車がないと行けず(私は車を持っていない)、そしてジュンク堂は富山県にはない。テーマパークから遠ざかっているせいか、ちょっぴりストレス気味の昨今である。

 

(隣町のレトロな本屋さん)

 

 

プロフィール

なかじまえいこ。フリーライター。21年半暮らした沖縄を、今年5月に引き上げ、ただいま実家のある富山県南砺市在住。久々のふるさとで、浦島太郎的生活を送っている。

 

 

 

2014年05月02日

ほんとーく 渡慶次美帆(第3回)

書店員の渡慶次美帆さんによる<ほんとーく>最終回です。

本と本屋への思いを綴っていただきます

 

 

 

 

 

 

「いつか沖縄に大きな本屋をつくりたい」

 

 

 

 

目立つためのハッタリ半分、個人的な願望半分でこんなことを言っていたら、運命の悪戯(としか思えなかった)か、最終面接を通り、本採用となり、6年前、新入社員としてJ書店I本店へと配属されることになった。

 

大型書店チェーンとして本格的に全国進出しはじめた会社にとって、I本店はまさに「巨大母艦」のような店だった。地下1階から地上9階まで、他店とは比べ物にならない膨大な在庫を擁し、要請があれば各地方店へも出荷する。そこにあるのは、一般書のきっちり揃えられたシリーズものや豊富なバリエーションだけでなく、今まで働いた本屋では見たこともない専門書ジャンルが大半だ。特に理工書や医学書は一般的にはほとんど置かない(場合によっては卸せないと断られて置くことができない)タイトルも含まれ、そんな本ほどしっかり売れていた。必要な方にとっては実用書でもあるし、門外漢にとっても知らない世界を垣間見ることができ刺激になる。専門書の棚にエッセイや文庫新書、他ジャンルが組み込まれていて「おっ」と思わず手を伸ばすような並びがあったり、売れる売れないに関わらず好きな特集フェアを組んでいたり。担当者が長年の経験と努力で作り出した本棚の並びが、フロアごとに異なる空間を行き来しているような、本を媒介に自分の知らない世界を旅しているような気持にさせてくれる独特な存在感のある店だ。

 

そして店を回すために、膨大な数の人々が仕事をこなしている。日々棚から新たな情報を発信しようと試みるジャンル担当、土日ともなればテーマパーク並の行列を捌くレジ・サービス担当、全国様々な店の業務までカバーする事務担当、商品の仕入れ管理を取り仕切る商品担当、発送やネット注文品を取り仕切るメール担当、店頭注文一切を取り仕切る客注担当、等々。働いてみて、その凄さを実感した。店頭に立っている担当者だけじゃない、いろんな場所にいる沢山の人が店を動かしている。本当に一つの船に乗っている気分だった。

 

そんな中に、無知な使えない新入社員として入り込み、必死にノウハウを学んだ。担当ジャンルは雑誌。一般的な女性誌・男性誌で収まるわけもなく、ちょっとマニアックなデザイン誌やカルチャー誌、一体誰が読むのかという専門誌(特に学術系)、個人や小出版が発行するリトルマガジン(ZINE)など、ありとあらゆる雑誌をインプットし、さらにどのフロア・どのジャンルで扱っているかまで把握する。扱っていないタイトルも、問い合わせがあれば「どこでどうやったら手に入るのか」調べて案内しなければならない。雑誌は週刊月刊が多いので、売れ数をしっかりチェック、即手配するスピード感も大切だ。毎日毎日知らないもの、知らないことばかり。失敗と空回りばかりしている新人を、先輩や同僚はいつもフォローし、助けてくれた。誰もが一人一人個性的で、知れば知るほど面白い人ばかり。時には食事をしたり、酒を飲んで騒いだりして遊んでくれた。仕事は大変だったけれど、「こんな雑誌や本が存在しているのか」という発見の楽しさと、先輩や同僚の存在が心強い支えになった。

 

 

 

 

やっと何とか慣れ始めたかという1年目の、おそらく12月頃。

 

「来年4月、沖縄出店決まったから。もちろん行くよね?」

 

寝耳に水。つくってほしいと言って入社した自分が、断わる理由はない。しかし正直に言えば、新規店に行くのは不安で仕方なかった。まだ1年目、大型店で働く術を身に着けたとは到底思えない。それでも、「今行かないでいつ行く」という周囲のありがたい後押しと、地元にいる家族の歓迎と、持ち前の「きっと何とかなるだろう」という楽観的性格で、転勤を決めた。

 

以後、あれよあれよという間に時は過ぎ、気付いたら沖縄へ戻り、那覇店オープンにこぎ着けた。西日本でも最大級の、120万冊を揃える大型店。オープンするまで一体どうなるのか見当もつかなかった。

 

ところが。蓋を開けてみれば、誰もが想像していた以上の大盛況。開店前入口に列ができるほどだったらしい。本当に嬉しかった。みんなこの日を待ち望んでいたのだ。やっぱりみんな本を、本屋を欲しがっていたのだ。「これを探していた」「買えてよかった」店頭で言われる度にそれを実感する、幸せな経験だった。

 

それからは、詳細を思い出せないほど目まぐるしく、怒涛のような忙しさだった。本当にすべてが混ぜこぜの毎日。必死に目の前の仕事をこなし続けた。

 

オープンから3年ほど経った頃、ふと、何のために自分が仕事をしているのか、分からなくなった。誰のために、何のために、自分は働いているのか。必死になりすぎて、立ち止まって冷静に考えることができなくなっていた。那覇店は、規模でいえば良くも悪くも近隣に競合店がない。自ら考えてどうしていくか見つけなければ、日々を繰り返すだけになってしまう。本当はやらなければいけないこと、できることは山ほどあるはずなのに、気持ちがついていかない。本屋としても社会人としても力量不足、成長がない自分はこのままでいいのか、ここにいていいのか。堂々巡りに陥り、仕事以外で本を見ることも辛くなり、できるだけ休みは違うことに熱中した。それでも、自問自答は消えなかった。全て放り出して逃げてしまいたいという悪いくせが、湧き出してきそうだった。

 

そんな時いつも、那覇店に移動する際、ある先輩が言ってくれた一言が浮かんできた。

 

「本屋は10年経ってやっとその土地の文化になる。10年頑張りなさい」

 

迷いの出口は見つからないまま、果たして10年も続けられるのだろうかと思いながらも、ここで折れるわけにはいかない、続けなければいけない、と自分を叱咤し続けた。

 

そんなもやもやした気持ちに、ふと日が差す瞬間が訪れた。

オープン5年目に入ろうかというある日、学生アルバイトの面接に立ち会う機会があった。

「この店で参考書を買って、勉強して大学に受かりました。だからこの店で働いて恩返ししたいんです」

新入学した大学生の男の子。普通に考えれば、面接のためのお世辞だろう。それでも、自分で直接そんな言葉を聞いたのは初めてだった。自分でも信じられないくらい、嬉しかった。丸4年経って、店が誰かの人生の一部になっていると実感することができた瞬間だ。なんて幸せなことだろう。自分のやっていることは、無駄ではなかった。

 

そして、頭でわかっていたはずの様々なことが、改めて確かな実感として感じられるようになった。

 

目の前にいる人のためにできるだけの品揃えをして本を売る、本がその人の人生の一部になる、それだけで十分嬉しいことじゃないだろうか。そのために、一所懸命工夫して働いてゆくことが、自分にとっては、大切なことじゃないのか。

 

一緒に働く同僚たちと悩みつつも相談しながら店を回し、出版・取引先の方々と協力しながら、日々足を運んでくださるお客様に本を手渡す。この仕事をしていなければ、きっと出会うことも関わりあうこともできなかった人たちと繋がっている。社会性に欠けた自分からしてみれば、それだけでも十分大したものじゃないかと。

 

そんな気持ちをさらに広げたのが、昨年10月、那覇市を中心に開催された「ブックパーリーNAHA」というブックイベントへの参加だった。

 

『本』をキーワードに様々なイベントが企画され、誰もが街に出て『本』を楽しめるという1か月。そこに自店イベントで少しだけ関わらせてもらうと同時に、自分自身もいろんな場所へ遊びに行き、『本』との関わりについて考えた。那覇市内の書店の方々、出版社・取次の方々、古書店の方々、カフェ・飲食店の方々、朗読・紙芝居などパフォーマーの方々、写真・映画関係者の方々、等々。皆さん本当に一所懸命にイベントを盛り上げようと努力している。その素直な情熱に、一歩引いて考えがちになっていた自分を反省し、多くの人と話すことで、自分の目の前のことが、もっと広い外の世界にも繋がっていると感じられた。元気がないと言われている出版業界だけれど、『本』ができることは、きっともっとあるんじゃないかと。

そして単純に、こんなに選んで楽しめるイベントがあることが、凄く嬉しくて楽しかった。きっと10代の自分がいたら、もっと嬉しかったはずだ。

 

自分が楽しいと思うことや、自分がかつて好きだったこと、欲しかった場所。実現させようと目指すのは、単なる自己満足に見えて、実は回り回って誰かの楽しみに繋がっていくのかもしれない。

自分のいる店も、「ここだけがあればいい」ではなく、「あそこもいいし、ここもいい、今日はそこへ行こう」というような、街全体の中の選択肢であり続けられたらいいと思う。いろんな店や人が集まる街に、長く存在し続け、風景の一部になれるとしたら、日々の失敗や七転八倒も、報われる気がする。

 

 

結局、自分の思う理想の「本屋」とは何なのか、これから『本』という形がどうなっていくのかと同じように、未だよく分からず、ぐだぐだと考え続けている。

ただ、もし今「何で本屋で働くことにしたんですか?」と聞かれたら、「本屋が好きで、本屋になりたかったから」と素直に答えられる。それだけは疑いようもない自分の本心だからだ。そしていつか自分の思う「本屋」になるため、日々悩み考えつつ、働いていくと思う。大きな船の小さな歯車として。

いつか歯車の歯が欠けて落っこちて、コロコロ転がってまた別の場所にポコッとはまる日がくるかもしれないけれど、とりあえず今は、時々かみ合わせが悪い日もありつつ、目の前のお客様と自分のために、日々コロコロ回っていようと思います。

 

 

長々と引き伸ばしてしまい、失礼いたしました。

また本屋の店先でお会いできますように。

 

 

 

(写真:渡慶次 哲三)

※写真と内容に関連は全くございません※

 

ほんとーく 渡慶次美帆(第1回)

ほんとーく 渡慶次美帆(第2回)

2014年03月17日

ほんとーく 渡慶次美帆(第2回)

ジュンク堂書店那覇店の渡慶次美帆さんによる<ほんとーく>第2回目です。

本と本屋への思いを綴っていただきます

 

 

 

 

 

 

浪人生活を経て東京の大学へ進学したものの、相変わらずパッとしない日々だった。

 

 

勧誘されて入ったサークル活動、コンビニでのアルバイト、展覧会や舞台観劇等々、学業以外もいろいろ挑戦するのが大学生活だ!と思いこみ、遊び呆けた結果、見事に3年次留年が確定してしまった。自分のいい加減さ、不真面目さが生んだ結果である。

 

 

中退してしまおう、と何度も思った。自分の情けなさを直視したくなくて、逃げ出したかった。家族に相談しては、何度も説得された。両親にしてみれば、せっかく浪人させて3年も大学へ通わせたのに、中退してしまったら元も子もない。すったもんだの末、夜間部へ転部すると自分で決めた。学費が半分になるし、日中は働ける。親のすねかじりには変わりないけれど、自分なりのけじめのつもりだった。

働こうと決めた時、どうしてもやりたかった仕事がある。

 

 

本屋で働くことだ。

 

 

沖縄にいた時と変わらず、またはそれ以上に本屋巡りは生活の一部のように続けていた。『ブック・ナビ東京』(メタローグ発行2005年)に掲載されている東京近郊の大中小様々な本屋・図書館・古書店、行けるところはどこでも行った。紀伊国屋書店新宿本店、青山ブックセンター本店、ブックファースト渋谷店、三省堂書店神保町本店、往来堂書店、神田古本屋街、洋書専門店、駅周辺にある個人経営の本屋や古書店…。それぞれ棚を眺めているだけで、楽しかった。誰に頼まれたわけでもないのに、ひたすら見て回った。発売日前に新刊が買えるなんて、とても信じられなかった。那覇の中心部から本屋が消えていた沖縄の状況を顧みて、行っても行っても行ききれないほど本屋があることが心底羨ましかったし、この大型店のうち一店舗でも沖縄にあればなあと、想像してはため息をついた。

 

 

それまでは勤務時間帯が合わず断念していたけれど、夜間部なら終わってから大学へ通える。

直接的な本屋との関わりは、こうして最低の状況から始まった。


(写真:渡慶次 哲三)

 

初めて働いた本屋は、S駅前にあったYS書店。駅前を中心に、小中規模の店をいくつも抱えるチェーンだ。ほどほどの広さの店は、数を置くことができない分、土地柄や客層に合った品揃えをする必要がある。初心者でも棚を触らせてもらえるかもしれない、と思って決めた。(実は今でもこの規模の本屋が一番好きだし、居心地がいい)都会のど真ん中にある駅前なのに、通ってくれるお客様は近所のパーマ屋のおばあさん、学校帰りの高校生など、常連も多く、どこか身近でアットホームな雰囲気がある店だった。

しかし、小中規模店の経営は、想像以上に厳しいものだった。

 

 

新刊、売れ筋のタイトルは注文通りの数が入ってくることなど、ほとんどない。大型店に根こそぎ持っていかれ、客注で注文してもほとんどが減数されて入荷しない。入ってきたとしても、タイミングは過ぎている。売れない不要なタイトルに限ってたくさん配本されてくる。不良在庫と返品率が増えていく悪循環。取次会社への支払いを抑えるため、毎月末は大量の返品を出した。ひどい時は、棚がガラガラになるほど、ほとんどの在庫を返品し、翌月また発注した。会社全体がかなり厳しい時期だったのだと思う。それでも、返品発注を繰り返すのは、本当に空しかった。

 

従業員数はいつもギリギリで5~6名。社員は1人か2人、フル勤務も珍しくない。社員の方々は、本当に身を削るように一生懸命働いていた。責任感、店や会社への愛着、その支えすらいつ失ってもおかしくないほどギリギリに見えた。学生アルバイトでもかなりの比重で仕事を任され、こなすのが辛い状況になったため、半年ほどで自分も辞めてしまった。その後、会社は取次へと経営譲渡し、勤務した店舗は規模縮小した末、閉店してしまった。

 

小さい店ならではのお客様との会話、やりとり、細かいところまで自分たちで関わるやりがいも確かにあったはずだ。こつこつと営業を続けている良質な小規模店もあるのだから。しかし、純粋に労働環境として厳しい状況だったと思うし、出版業界の仕組みに対しての問題意識も心に残った。

 

YS書店を辞めた後も、本屋で働くことは決めていた。仕事自体は少しも苦にならず楽しかったし、もう少し大きな店ならば、状況も違うのではないかと思ったからだ。

次に務めたのはYD書店。100年以上の歴史を持つ老舗だ。E駅前のオシャレなビルに入っている店舗は、近隣に競合店がない上、女性客も多く、出版社の注目度も高かった。頻繁に仕掛け販売やイベントも行われ、活気のある良い店だった。自分も実用書や語学書を担当させてもらったり、フェアをしてみたり、出版社や取次の方々と話しをさせてもらい、本に関する基礎知識を学ばせてもらった。

そして何より、立場に関係なく、みんな本を売ることに本気で取り組んでいた。本の棚入れを効率よくこなすにはどうすればいいか、どう陳列すれば効果的か、備品の補充は分担できないか…棚のこと店全体のこと、どんな細かいことでも意見をやり取りし上司に直談判した。定時内でしっかり働いた後は、世間話や悩み相談をしたり、食事に行ったり遊びに行ったり、アルバイト同士が気兼ねなく声を掛け合い、良い雰囲気を作り出していた。あの頃一緒に働いた友人たちとは、今でも会う度に仕事の話をする仲だ。ひょうひょうとしているSさん、いつも優しいE子さん、オシャレなN、気遣いの人Iさん、美味しい物好きなMさん、厳しいけれど頼れるH君…。本屋には真面目で一生懸命で個性的な人がたくさん働いている。

失礼な発言や行動もたくさんしていたはずだけれど、気遣いつつ切磋琢磨しあう関係の中で、「できることを効率よくこなす努力」「一人ではなくみんなで協力する」という、大切な姿勢を教わったと思う。そして、店を作るのは、店長や社員だけでなく、自分を含めた従業員一人一人なのだと実感した。

 

そうして働いていくうち、本屋がいつの間にか自分にとって「立ち寄る場所」ではなく「仕事を通して成長する場所」になっていた。
やる気も根気もない自分が、変わらずこだわり続けている本という存在単なる本の置き場所ではなく、様々な人と関わることのできる貴重な場所である本屋。
「本に携わる仕事」のうちの一つとしてではなく、「本屋になりたい」「これからも本屋で働きたい」と思うようになっていった。
就職活動を始める際、本屋一本に絞ろうと決めた。

 

 

ただ、大手特に老舗の新卒採用人数は年々少なくなっていた。理由は書籍部門の売り上げ不振が大きい。YD書店もしばらく新卒採用を募集していなかったし、長く働いているアルバイトの昇級制度・本採用も滞っていた。入社することは到底できそうになかった。

 

 

それでも、本屋以上にやりたいことが現時点では見つからない。興味のない職種について勉強する器用さもない。さらに、本屋に行けばきっと面白い人がたくさんいるに違いない。

 

 

こんな消去法的な考え方でいくつかエントリーし、就職活動をし、今の会社の選考に何とか引っかかり、面接官の印象に残る言葉を言おうと考えた挙句、希望半分、ハッタリ半分で思いついたのが

 

 

 

「いつか沖縄に大きな本屋をつくりたいです」

 

 

 

という決め台詞だった。

 

 

 

まさか入社1年後に叶うとは、思いもしていなかったのだけれど…。

 

 

 

長いけれどもう少し続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年02月18日

ほんとーく 渡慶次美帆(第1回)

 

今回から<ほんとーく>は、ジュンク堂書店 那覇店の書店員、渡慶次美帆さんへ

バトンが渡りました。3回にわたって本と本屋への思いを綴っていただきます

 

 

 

 

「何で本屋で働くことにしたんですか?」

 

職場体験に訪れる中学生たちに尋ねられるお決まりの質問。なのに、聞かれる度、言葉につまる。

 

その場では一応「本が好きだったから」とか「漫画家や小説家になれなかったから」とか、いかにもありそうな理由をつけて流すようにしているけれど、実際は一言では言い切れない気がして、帰宅途中うっかり思い出してしまって、いろいろ考えてしまって、寝るまで延々考え続けてしまったりする。

 

 

さらに「本屋で”働き続ける”理由」なんて考えだしたら、もう一向にまとまらずぐるぐるエンドレスになってしまうのが常だ。

そして朝になって忙しい毎日に紛れて忘れてしまい、新たな中学生の登場により、また問いかけられる。

 

 

「何で本屋で働くことにしたんですか?」

 

 

今回ご縁があって文章を書かせてもらえることになり、喜んで受けたはいいものの、人様に言えるような人生経験もなく言いたいこともうまくまとめきれない自分。どうしたものか。

『ほんとーく』というからには、本の話。しかも本屋で働く者としては、本屋のことを書くべきか、書くべきなんだろうな、書かざるを得まい、書くしかない。

自分勝手に追い詰められた気持ちになって、最終的にやぶれかぶれな気持ちになって、開き直る。いつものことだ。

 

 

学生時代のアルバイトから始まり、今年で約9年。

小中大と規模の異なるいくつかの本屋で働かせてもらった経験は、振り返ってみると貴重な思い出だ。

ずっと言葉にできないまま放置してきた自分と本屋の関係について、この機会に向き合ってみようと思う。

 

一個人の狭く短い人生の一部であり、業界の裏話も、感動的なことも目新しいことも出てこないはずですが、こんなやつもいるのかと、読み流してくださったら幸いです。

 

 

 

 

仕事について語るには、まず自分について語ることになってしまう。

 

両親によれば、やっぱり本ばかり読む子供だったらしい。

保育園や幼稚園でもお遊戯が終われば「義務は果たした」とばかりに本棚の前へ座り、絵本を読みふける。何を読んだ細かいことはほとんど覚えていないけれど、毎月園でもらう絵本や、祖父母宅にあった古い童話、昔話集など、読めるものはなんでも読んでいた気がする。

 

 

薄れかけの記憶からやっと思い出せるエピソードの一つが、小学校低学年の国語の授業。

 

短い詩と中くらいの詩と何連もある長い詩。3つの詩のうち、どれが好きですか、と先生がみんなに問いかけた。短い詩が工藤直子さんの『おれはかまきり』で、そのシンプルな面白さがみんなに大うけ、どう考えても一番人気だ。自分もいいなと思ったから、はっきりと覚えている。それなのに、結局最後の一番長い詩を選んだ。

「みんなが同じ詩を選んでしまったら、先生が困るかもしれない」「みんなと同じよりは、違う詩を選んだほうが、わかってる感じがするかも」

小学生のくせに、誰も望んでいない勝手な気遣いと変な見栄をはる、面倒くさい子供だった。

 

 

さらに数年経った高学年の頃。少女漫画やコバルト文庫などの少女小説、両親が買ってくれた宮澤賢治、図書館で借りたクリスティ、ドイル、乱歩などのミステリにも凝り始め、相変わらず本ばかり読んでいたある日。急に、どこにも自分の居場所がない気がして、落ち着かなくなった。家にいても学校にいても、誰にも必要とされていない、誰も自分のことを分かってくれない、そんな気持ちになった。

 

 

両親が一生懸命育ててくれているのは理解していた。兄との仲も悪くなかった。祖父母親戚も近くで見守ってくれていた。いつも遊ぶ友人もいた。裕福ではないけれど、確かに自分は恵まれているとわかっていた。それなのに、孤独を感じていることが、とても申し訳なく、間違っているように思えた。

 

今思えば第二次性徴期、思春期によくある不安定な状態だったと予想できるが、当時は誰にも言えず、誰に気付かれることもなく、勝手に絶望して勝手に落ち込んだ。

 

 

 

そして中学生時代、孤独や悲しみ、寂しさについて書かれた本や音楽にのめりこんだ。特に世間で『ビジュアル系』と呼ばれた音楽やロック音楽に傾倒して、休み時間になっては雑誌の切り抜きを取り出しカセットテープを聴き友人と騒ぐ、という完全にクラスで浮くタイプになった。結果、未だにクラス会のお知らせをもらったことがない。多数派と違うことが好きだ、ということに無駄な優越感を感じていた。

 

高校生時代はより悪化し、文学やら詩やらを読んでみたり、小難しい外国映画を観てみたり、洋楽を聴いてみたり、写真を撮ってみたり、留学したがったり。北国に憧れ、植村直己や星野道夫を読んでは、テント一つ張れないのに、旅する自分を夢想した。コミュニケーション不全で、バイトの面接にことごとく落ち続けた。完全に見栄と自意識の塊となって思春期を過ごした。

 

 

思い出すだけで恥ずかしい10代。全く無為に過ごしたとしか思えない10代。今あの頃の自分に会ったら、叫びながら頭を叩き倒してしまうのは間違いない。

 

 

けれど、あの頃必死になって読んだり聴いたりした表現作品は、確かに自分を救い、自己を形成する糧となった。

 

自分だけではない、人は大抵孤独を抱えて生きている、という安心感。家族であれ友人であれ、全ての価値観を分かり合えることはない、と冷静に相対化する視点。世界は広く、自分の知らないことに溢れているという事実。

たとえ誰かにとってくだらない価値のない表現だとしても、他の誰かにとっては人生を変える価値を持つことがある。漫画、ラノベ、児童書、実用書、自己啓発、なんであろうと、好みはあっても貴賎はない。たった一言一文で、人生が変わることもあると今も信じている。

 

そんな風に本や音楽にのめりこんでいたら、当然のように出席日数が足りず、推薦を受けられず、一般入試も失敗し、さらに気ままな浪人生活を過ごし、橋本治や町田康を読み漁り、「このまま本を読んで暮らせたら幸せ」と縁側でのたまい、親の心配が頂点に達した1年後。なんとか大学に合格、本屋の溢れる東京へ進学することとなったのだった。

 

長いけれど続きます。

 

(写真:渡慶次哲三)

 

 

 

 

 

 

2014年02月07日

ほんとーく 高柴三聞(第3回)

 

 

 

今回の<ほんとーく>は浦添の障害施設で働きながら、怪談などの創作活動をしている

高柴三聞さんの第3回です

 

 

 

 

 

最近、ちょっと詩集を手にしていない。本屋さんでも、見かけなくなった気がする。

でも、詩こそ、今必要な文芸の形態の一つだと思う。

 

理解と感じることの入り混じった、この文芸は時に何かを深く抉り出してきたり、答えのない問いかけを僕らにしてくる。

今は、気軽に答えのわかる方に流れてしまっている気がする。考えるのを世間が止めてしまっているように感じる。

 

暫く、詩から離れていたので、気になって読んでいなかった詩人と好きな詩人を紹介して、詩の復権を願いつつ、徒然に書き進めてみたいと思う。

 

まだ読んでないけれど得意の読まず嫌いで読まなかった人に、詩人の中原中也がいる。

この中原中也という人が、めちゃくちゃで面白い。小学生レベルで太宰治を虐めてみたり(そして、残念なことに悲しいくらいに一方的に虐められている太宰、しかも陰口で応酬している。この件に関してだけは、太宰は本当にいいところが無い。残念至極。Wikipediaにも載っているのでご興味のある方はどうぞ。)中也は派手に喧嘩したり心配されたり、そうかと思えば、とある女性と小林秀雄との不思議な三関係だったり。非常に人間が面白い人なのだ。

 

昔、三上博が主演で中也のドラマがあったけれど、もっとドラマとか映画であつかって欲しいくらいの人だと思う。

 

若い頃は『汚れちまった悲しみに』があまりにも、かっこよすぎて、何だか手にしなかった。蓋を開ければ無頼で繊細な、一言でまとめてしまえば真に面倒な人。この面倒な人が書く世界はきっと面白かろうと思う。

書店では、中原中也は比較的探しやすい人なので、今度の給料日にでも文庫本を探してみようと思っている。

 

今までの読んだ詩の中では、山之口貘さんが好きだ。どうしてだか、好きな俳句は種田山頭火。何故だか、二人ともホームレス経験者なのだが、惹かれたのはそっちじゃない。

 

 

どうしてだか、この二人の作品には、寂しさの中にペーソスというか、一種独特の悲しみ笑いが文章の中に折りこめられている。

 

時には、自嘲気味にさえ感じられるその笑いの、その向こうには絶対の孤独と無限の愛と、それらをひっくるめた「生きる」という日常がぐるぐる渦巻いている。

 

あまり、鼻息荒くせず、生きることの辛さ、たくましさが、笑いとともにそっとこめられたあたりが、何とも言えない気持ちにさせられるのだ。

 

山頭火と同じ自由律俳句の代表であり、同じく孤独と漂泊の歌人として比較されるのは尾崎放哉。放哉の方が、より孤独が深いと評する人もいる。

確かにそうだと思うけれど、「咳しても一人」と詠んだ放哉より「酔うてこほろぎと寝ていたよ」と、はにかみを含んで歌った山頭火の方により朗らかさと愛情のようなものを感じて、僕はそこに惹かれる。

 

同様に、朗らかさと愛情を感じさせてくれる詩人山之口貘さん。

 

貘さんの方が、山頭火よりも人に寄り添っているかもしれない。普通の世界に近いというか。貘さんは最後まで素敵な家庭人だった。ここは、山頭火との決定的な違いであると思う。

 

山頭火は、幼い頃に自殺した母の遺体を見ている。このトラウマか、アルコール中毒の体質のせいか、大酒を飲んでは、人生の色んなことをふいにしてしまっている。

「母ようどんそなへてわたくしもいただきます」と其中庵の碑にあったけれど、その歌が生まれる心境になるまで、大変な時間を要したのだと思う。

 

その間、人間の世界と自然の中をどれだけ行ったり来たりしたのだろう。山頭火の歌は、悲しいほど自然の方に近い。

 

方や生まれ故郷を、独り飛び出した貘さんは、居候したりホームレスも経験しながらも人の世界に、申し訳なさそうな、困った顔しながらも、人の世界に踏みとどまって暮らしている。決して都会という感じではないけれど下町の生活観を感じさせる詩が多いのが貘さんだったと思う。

 

この二人の自然と人間の世界の立ち居地は、山頭火が農村的より自然的なのに対して、貘さんが下町的という見取り図を描けるのかもしれない。

 

これは、直接関係無いけれど、漫画家の水木しげるとつげ義春の立ち居地にも言えることだと思う。

水木しげるの漫画の世界は、農村的であったのに対しつげ義春は下町的な世界だった。

もっとも、水木しげるとつげ義春は師弟関係というか、一時期つげ義春は水木しげるのアシスタントだったから御互いに接点も、影響もあったわけで、山頭火と貘さん、しかも歌人と詩人だから本来は比較にならないかもしれないけれど、面白い共通点のような気がしている。

 

ちょっと、獏さんの詩集と山頭火の発句集を並べて読むとひょっとしたら新しい発見があるのかもしれない。

 

 

 

高柴三聞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年01月27日

ほんとーく 高柴三聞(第2回)

 

 

 

今回の<ほんとーく>は浦添の障害施設で働きながら、怪談などの創作活動をしている

高柴三聞さんの第二回です

 

 

 

 

私は、就労継続支援事業所という障害者の分野で働いている。その前は、老人の介護の世界にいた。

 

老人の介護の世界と障害者の支援の世界では、同じ福祉の世界でもまるっきり違う。

 

当時、老人の介護って何だろうと、自分なりにぽつぽつと勉強し始めたのだけれども、その時に出会ったのは、三好春樹という人の本である。

 『老人介護常識の誤り』(新潮文庫)や『生活リハビリとは何か』(筒井書房)、『関係障害論』(雲母書房)などの本を夢中で読んでいた時期があった。

先生は理学療法士の立場から介護についてさまざまな提言をし、活動している方だ。

特に個人的に面白いと思っていたのは、レヴィ=ストロースやミシェル・フーコーなどの影響を受けており、管理的、効率的に流れがちな介護に人間にとって良いケアとは何かと考えている点だった。

これだけ社会は発展しているけれど、不思議と人間の幸せと離れていってしまうと子供の頃から思っていたけれど、「嗚呼、世の中はやっぱり世の中はそうなんだ」と思いながら読んでいた。

 

 

僕にとっては、世の中はカフカが『城』や『審判』みたいに、無軌道で残忍な良く判らない社会システムが個人の前に横たわっているのだと思っているから、日々そんな側面を目敏く拾ってしまう。

 

 

 

 

 

介護の世界でも、何だかわからないけれど、決まっているからやっているけど、本当に本人にとっていいことなのだろうかと疑問に思いながら働いていることがままあった。

 

その点、三好春樹先生の本は介護される側にとって本当に幸せなこと、介護する側にとって大事なことを教えてくれるのだと思う。

けれどもそれは、特別なことを考えるのではなくて人間としてどう振舞うのが自然なのかを教えてくれた気がしている。

ついでに言っておくと三好先生がタイピングしているとき、要介護老人とタイプしようとして、妖怪御老人と誤変換された話を紹介しながら、妖怪と連想してしまうほど、老人の個性が強いことを指摘して、それは年を取ると人は、その人そのものの人間性が詰まって濃くなるのだという内容の話をなさっていた。

 

ちょっと後になって多田克己先生の『百鬼解読』(日本を代表する江戸時代の妖怪絵師鳥山石燕のよう絵画を基にした本)の本に出会ったとき、石燕が妖怪画に仮託した強烈な人間性や人間社会に対する皮肉を目の当たりにして、僕の中で人間と妖怪が一緒になった気がした。

 

僕にとっての妖怪は、愛すべき人間の極端な特性の現われみたいなものという所でしっくり落ち着いたのだ。

 

もっとも、それも実は妖怪という言葉の一側面でしかないのだけれど。厭世的に妖怪に逃げ込んだつもりで居たのだけれど、結局人間の世界で独り戯れていただけなんだなと。

 

妖怪に話が脱線してしまったので、福祉に話を戻すと、介護って、とどのつまり極端な(しかも、普遍的に一人ひとり極端な)人間性にいかに向き合うかの世界なんだなと個人的な感想を持っている。

 

 

三好春樹さんを知ってから後に富山型デイサービスの存在を知るのだけれど、これがまた凄い。いつか紹介したいけれど、今回は本を数冊紹介するだけに留めようと思う。

 

惣万佳代子著『笑顔の大家族 この指とー希』、阪井由佳子著『親子じゃないけど家族です』。著者はそれぞれ、富山型デイサービス(今は「地域共生ケア」とも呼ばれる。)を代表する人たちである。素晴らしい生命力と人間性がほとばしっている。

 

その後、介護から何故か障害分野に僕は「飛ばされ」ることになった。

 

障害福祉の分野の中の就労継続支援施設という、障害の人に働く場所と環境を提供する場所である。前の制度では授産施設とか福祉工場とか呼ばれている。

 

この障害の就労継続支援施設と障害の人のグループホームを運営している所に、僕は今居る。

 

この障害の分野は、老人の世界よりも多様性や主体性の強い世界で、日々振り回されながら暮らしている。

 

この分野でも、僕は指針になるものを模索しはじめた。

 

一番最初にこれはと思ったのは浦川べてるの家の『べてるの家の「非」援助論』、、向谷地生良著『「べてるの家」から吹く風』等の北海道の浦河で活動する「べてるの家」の活動や取り組みを書いている本であった。

 

べてるの家は、世界を百八十度ひっくり返してしまうような発想やフレーズに溢れている。

 

「安心して絶望できる人生」、「三度の飯より会議」、「幻聴さん」「当事者研究」「苦労を取り戻す」などなど、枚挙に暇が無いというのは、このことだと思う。

 

当事者達が、自分の生き方を自分で模索する姿と自分を丸のまま、いかに受け入れるかという取組は、生命力と表現していいのか、生きるという欲求の坩堝のように見えてくる。

でもそれは、明るく愉快でちょっと惚けたカオス。

 

こういった取り組みを本で読んだり、実際に著者の講演を聴きにも行ってふと思ったことがある。

一番大事なのは自分達がやっている事業や仕事は、いったいどんな意味があるのだろうということを、それぞれ考えることが大事なんじゃないかと思うようになる。

それは、自分達が世の中と向き合うための指針でもあり、価値創造でもあるのだと思う。

で、現在に到るところまで、ニーチェの関連の本を引っ張り出しては首を捻るようになる。

 

『ツァラストラ』はやっぱり難解なのだけれど、『道徳の系譜』『善悪の彼岸』を読み比べつつ、新書のニーチェものを複数読み比べしている。

価値の転換などにこだわって読んでいるつもりだ。

それにしても読む人によってこんなにも、感想の異なってくる人は珍しいと思う。

実はニーチェの隠れたテーマは、芸術による世界の救済なんていうことらしいのだけれど、僕自身密かに福祉の世界の中にそれが隠れているのではないかと思いながら本を読んだり考えたりしているけれど、まだ纏まっていない。

 

とりあえず、遠近法主義(立ち位置によって、物の姿は異なり、しかも多面的であるということ)など取り入れやすい部分を「使っている」だけである。いつか纏まった考えにまでもっていきたいなと思っている。それまでは雲を掴むような思考の日々が続く。

 

 

                                         高柴三聞

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