ほんとーく

本について語ることは基本的に楽しい。お気に入りの本のことや、読んだ本にまつわる記憶や
著者へのこだわりを、たまに誰かと一緒に共有したくなる。
というわけで、ボーダーインクの本に限らず、県産本やら、いやいろんな本をネタにして
あれこれと、ユンタクヒンタク(ハッピー・トーク)してしまおうというのが、このコーナー。
「ここだけの話」ということなので、すぐに脱線していまいそうだが、そういうのもよし!

2015年08月07日

ガラガラ石畳 vol.4

garakanban

 

 

「母の描く地図」

 

 

 

昔から母が自慢だった(父も自慢、、、だよ)。私よりも背が高く細身で、料理も上手で頭もいい。でも、何よりも自慢だったのは、母が図書館司書だったことだ

本を修理する話や図書館で働く様子を聞くのが楽しみだった。何より、本に囲まれて仕事をしているという響きが清らかで素晴らしいように思えた。

 

高校生までは自分の好きな本を気が向いたときにだけ読んでいた。読書よりも映画が好きだったし、家にいるよりも友達と遊ぶ方が楽しかった。

 

それが、大学で上京してからはひどいホームシックにかかり、休みのたびに沖縄に帰り、家で過ごすことも多くなった。父と母が薦める本もできるだけ読むようになった。その本たちは、今も私の本棚に大事に置かれている(本当は、少しだけ小書店の本棚に引っ越している、、、)。

大学時代、母から薦められてはじめて読んだ須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』の感動をどう伝えればいいだろう。

 

須賀敦子は1929年生まれ。29歳の時にイタリアに渡り、結婚した。ミラノで日本文学のイタリア語訳に取り組んだ。本を書き始めたのは、なんと50代後半からだ。無駄のない上品で美しい文章は、何年経っても色褪せない(生意気、すみません)。

はじめて読んだ須賀敦子は、今まで感じたことのなかった寂しさと、はにかんだような控えめな喜びが溢れていて、すーっと私の心を静かに満たしいく気がした。東京に住んだ8年間、寂しいときにこの本を開くことが多かった。須賀敦子の強さと優しさに励まされる、というよりも須賀敦子がいるんだ、と思うだけで心が少し潤うのだ。

はじめて読んだ『コルシア書店の仲間たち』の感想を母に話すと、母もはじめてこの本を読んだ時のことを話してくれた。

「私ね、この本を読んですぐに紙とペンを出して地図を書いたのよ。大聖堂を基点にして北東にある道にコルシア書店がある、、、スパダーリ街があって、、、」

母が少し興奮して、机の上に指で地図を書き始める。本を読んだばかりの私は、「あー、ここが大聖堂かぁ、ここが書店かぁ」と、行ったことのないミラノの町を机の上で母と旅した。

本ってこんな読み方もあるのか!と、ワクワクした。

15年経った今でも、須賀敦子を開くたびに母の地図も思い出す。机の上にある小さなミラノだ。

 

もう一つ、この本に関してエピソードがある。

 

店長が小書店を始めたとき、小書店の本棚には買い付けた本もあったが、店長の持っていた本がほとんどだった。

私が副店長になった今年の4月、5月は店長が夕方から小書店を見ていた。店長は交代の時間、母に小書店まで送ってもらうことも多かった。

ある日、母が店長を送りがてら、本を探しにきた。「須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』を久しぶりに読もうと思ってるんだけど、家にないのよ。在庫があれば買いたいのだけど」二冊あった『コルシア書店の仲間たち』の一冊を母が手に取った。

その本をぱらぱらとめくりながら、母がじーっと考え込んでいる。そして、店長に向かってこう言った。「これ、私の本よね?探してもないと思った。私の本棚にあるものまで売っているの?」店長は頭を掻きながら笑っている。

 

母は300円を支払い、再び自らの『コルシア書店の仲間たち』を手に入れた。。

 

 

 

ガラガラ石畳 vol.1→こちら

ガラガラ石畳 vol.2→こちら

ガラガラ石畳 vol.3→こちら

 

 

 

宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。

メルマガ『宮里小書店便り』

2015年07月17日

ガラガラ石畳 vol.3

 garakanban

 

 

「金色の妹」

 

 

 

 2009年に韓国のハンガラム美術館で開催されたアジア初世界最大規模のクリムト展。

その時期、私は韓国に滞在していた。

表向きは韓国語の勉強だったが、海外で暮らしてみたいという気持ちのほうが強かった。少しの蓄えと少し知っている言葉。そして、何かあればすぐに帰れる国。貧乏で小心者の私には条件がぴたりと合っていた。

 

ハンガラム美術館でのクリムト展は大評判だったようで、大勢の観客が訪れていた。多くの絵が展示されていたはずなのに、覚えているのはたった一枚の絵だけだ。「ベートーヴェン・フリーズ」。

「ベートーヴェン・フリーズ」が展示されている部屋に入ったときの感動をどう伝えればよいだろう。今までに見たこともないくらい清らかで眩しい空間だった。

最初は明るすぎて目眩がした。目を細めた次の瞬間、静かで美しい空間が私の前に現れた。大袈裟だが、天国の入り口のようだと思った。

両壁面いっぱいに、クリムト特有の金と宗教画のような神秘的な絵が飾られている。控えめに流れるベートーヴェンが場を更に神聖なものにした。絵画のことはよくわからないが、圧倒された私はしばらくその場に立ち尽くした。

 

それから数週間後、妹が韓国に来た。妹は、昔から堅実で冷静で私よりずっとしっかりしていた。2人姉妹だが、歳が9つも離れているので、一緒に遊ぶことはほとんどなかった。彼女が小学生の時に私は進学のために東京に住み始めたし、私が沖縄に帰ったころ、妹は東京の大学へ行った。とはいえ、私は歳の離れた彼女のことをいつまでも子どものように思っていた。

普段から美術には興味がないと公言している妹にはきっとつまらないだろうと思ったが、せっかくの機会だからと再び2人でクリムト展に行った。やはり、彼女の興味をひかなかったようで、展覧会の話をすることはなかった。

その頃、彼女は大学卒業後の進路に悩んでいると言った。安定した仕事に就くべきだと思うが本当にこれでよいのか、とどこかで引っ掛かっているようだった。

30歳を前にしてふらふらしている私にはこのような相談に乗る資格がないように思えたが、妹の晴れない気持ちはわかる気がした。

 

妹が韓国に遊びに来てから2年ほど経ったころ、妹は大学の卒業旅行でヨーロッパへ行ったという。

「お父さんとお母さんには内緒だけど、オーストリアには一人で行ったんだ。クリムトの絵を見たくて」

妹を遠い国へ後押ししたのがクリムトの絵だったことに私は驚いた。

ずっと子どもだと思っていた妹は、1人で遠い国へ軽やかに行けるほど、大人になっていた。。

妹が知らない人間になった気がして、眩しかった。目を細めて妹を見た。

 

 

 

ガラガラ石畳 vol.1→こちら

ガラガラ石畳 vol.2→こちら

 

 

 

宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。

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2015年07月03日

ガラガラ石畳 Vol.2

 

 

「心の平穏〜小学生編」

 

 

  お小遣いをもらい始めたのは小学校2年生か3年生のときだった。

お小遣いの使い道は母が決めていた。母の指定する漫画のみを買ってよいのだ。それは、手塚治虫の『ブッダ』だった。

14巻ある『ブッダ』の表紙は2巻の赤ん坊以外、幼少期、青年期、修行期、仏陀期とブッダの上半身が描かれ、彼の成長(?)がわかるものだった。あどけない王子シッタルーダが凛々しい修行を経て悟りを開いていく。シンプルだがインパクトのある表紙だった。

  しかし、当時8歳か9歳の私に『ブッダ』の魅力は理解できなかった。クラスで流行り始めた少女漫画が読みたくて何度も交渉するのだが、結局は首里の三星書房に母と『ブッダ』を買いにいくのだった。

レジ入口の隣に置いてある小さな本棚に『ブッダ』が綺麗に並んでいた。レジに『ブッダ』を差し出すたび、「えらいねー」とお店の人が言ったのを覚えている。何が偉いのかよくわからなくて気恥ずかしかった。

 

 子どものころは面白いと思えなくても、漫画というだけで夢中で読んでいた。中学生、高校生になっても何度も読み返した。貸して戻ってこずに抜け落ちた巻もあるが、実家の本棚にはまだ『ブッダ』が静かにが並んでいる。

ブッダが王子シッダルタだったころは、か弱くて自己中心的な彼が嫌いだった。それより、スードラ(奴隷)やバリア(カースト以下の身分・不可触賎民)の人々のほうがタフで喜怒哀楽が激しく、私の目には魅力的に映った。

カースト制度という厳しく明けることのない闇のような世界を訳もわからずくり返し読む姿は、今考えてもなんだか滑稽だが、幼い私は、『ブッダ』から確かに人間の愚かさとしたたかに生き抜く力みたいなものを猛烈に感じ取った、ような気がする。

 

 もうひとつ思い出した。

小学校4年生の夏休み。「自由研究」は、母に言われてガンジーの年表をつくった。ガンジーの伝記を読んで年表を細かく作成し、似顔絵や下手な漫画を書いて提出した。ガンジーの伝記に思いのほかのめり込んだ私の「自由研究」はなかなかの力作だった。

「自由研究発表会」なるものがクラスであり、その日を境に男子からしばらく「ガンジー」と呼ばれていた。特に嫌な気もしなかった。

 

『ブッダ』とガンジーのこと覚えてる?と母に聞くと、まったく覚えていないと言う。あなたは『ブッダ』が好きで全巻持ってるんだねーと思ってたさー。私?私は『ブッダ』読んだことないよ。

ということで、母がなぜ幼い私に『ブッダ』を読ませようとしたのか、ガンジーの年表を書かせたのかはわからない。

 

  勝手な解釈をしてみる。私は幼稚園時代から何かと問題の多い子供だった。

幼稚園に行くふりをして、友達の家までヒッチハイクのようなことをしたり(家出)、叱られると叔母の家に逃げたり(家出)、小学校から何度も逃亡し、母が学校に呼び出されるのも1度や2度ではなかった。

責任感が強く人に迷惑を掛けるのが嫌いな母からしたら、落ち着きがなく、歩けば様々な場所に頭をぶつけ、学校に行けば問題ばかり起こす私は手に余りすぎる子供だったと思う。

加えて、私と同じ種類の人間であろう父は組合運動に明け暮れて家にはほとんどいなかった。母は子育てを1人でやってきたようなものだ。

母は問題児であった私に心の平穏が訪れることを願っていたのではないだろうか?

母に話すと、彼女は笑った。

「覚えてないさー。あなた、そんなにひどい子ではなかったよ。おもしろい子ではあったけど」

いつしか、私に心の平穏が訪れたのは『ブッダ』のおかげでもガンジーのおかげでもなく、多分、母のおかげだろうと思う。

 

 

 

ガラガラ石畳 vol.1→こちら

 

 

 

宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。

メルマガ『宮里小書店便り』

2015年06月19日

ガラガラ石畳 Vol.1

 

今月より那覇市の栄町市場で古書店『宮里小書店』を営む宮里綾羽の連載『ガラガラ石畳』がスタートです

 

 

 

 

こちら宮里小書店。本日から、「ガラガラ石畳」がはじまります。

「人」をキーワードに綴っていこうと思います。まずは、宮里小書店の店長のこと。

どうぞ、よろしくお願いします。

 

 

 

「父と私、それぞれのソウルベースボール」

 

 

 

 父からもらって、その後何度も読み返す本は多い。

その中の1冊が、『海峡を越えたホームラン-祖国という名の異文化』(関川夏央著)だ。

玄界灘を渡り、韓国プロ野球界に身を投じた在日僑胞出身の選手たち。

彼らが希望を胸に訪れた韓国は頭の中では祖国だ。しかし、日本で生まれ育った彼らに、文化や慣習の差違が現実として大きくのしかかる。決して生きやすい環境ではなかった。

 日本と韓国の狭間で苦しむ彼らの生活と心境を知れば知るほど、『海峡を越えたホームラン』は、私にとって大切な本になっていった。

 

 

 私が韓国で生活した8カ月の間に両親と妹が遊びに来た。

家族で巡った美術館や食事も楽しい記憶として残っているが、何より印象に残っているのは、父と韓国のプロ野球を観戦できたことだ。

 韓国を訪れる前、父から「韓国のプロ野球が見たい」とリクエストされていた。

短い日程だったし、私は韓国語も下手だ。

とにかく、スムーズに野球が見られるように、そして父と母に韓国生活を心配させないよう、家族が来る一週間前に野球場へ下見に行った。

 

 高校野球以外、特に野球に興味を持ったことはなかったが、東京生活の後半に神宮球場にハマり、何度か通ったことを思い出した。

 野球観戦するというより、球場の上半分が大きく開いて空しか見えない、あの開放感を求めていた。

仕事でクサクサーしている時も東京での生活が孤独だと感じる日も、神宮球場に行けば気持ちが晴れた。

蚕室野球場(チャムシルヤグジャン)も同じだった。

ソウルという都会の中で大きく広がる空を独り占めできる場所。

観客席の人々はみな、この開放的な場所にはしゃいでいた。選手に向けた大きな歓声の中に喜び、泣き、笑い、悔しがるといった日々の感情が凝縮されているようにも思えた。

 東京でもソウルでも、野球場にいる時だけは定まらない自分へのプレッシャーと不安定な日々から解き放たれていく気がした。

 

 

  父と見た韓国の野球。

貧乏で、暗くて、苦しい発足当時の韓国のプロ野球。

父と私が読んだ灰色の悲壮感は、もうそこにはなかった。

賑やかな音楽が鳴り響き、試合の合間には美しいチアガールたちが会場を盛り上げる。ショーアップされた色鮮やかな韓国があった。

 この、華やかにも見える韓国のプロ野球の歴史に埋もれた在日僑胞たちがいたこと、海峡を越え、孤独と差別に打ちのめされながらも踏ん張っていた人たちのこと。加えて、自分の感情がぐちゃぐちゃに混じり合い、観客席に座る私の胸にどわぁーっと押し寄せてきた。

 

 

「抽象的に生きている人なんて一人もいない」

これは、米原万里の言葉。

人が生きている背景には、言葉があり、文化があり、故郷があり、友がいて、家族がいる。親や祖父母にも歴史がある。薄い表面だけを、今だけを切り取ることなんてできない。

一人一人が歴史を持って生きているのだ。一人一人に日々、苦しみも悲しみも喜びも訪れるのだ。当たり前だけど、なんて壮大なことなのだろう。

そういった想いを解放できた日として印象に残っているのか、その瞬間に父といたことが幸福な記憶として残っているのか、よくわからない。

 

ただ、球場の騒音の中にいる私を思い返すとき、今でも胸が熱くなるのだ。

 

 

 

 

 

宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。

メルマガ『宮里小書店便り』

 

 

 

 

 

2015年05月22日

ほんとーく 宮里綾羽(第3回)

 

 

『アコークロー 我ら偉大なるアジアの民』。

 

アコークローとは、夜と昼の間の一瞬のしじまを指すらしい。キャッチーだし言葉に幅があるよいタイトルだと思う。

しかし、『アコークロー』の傑作は、実はサブタイトルではないだろうか。と断言とかしてみる。

 

我ら偉大なるアジアの小さな民。

 

凄い一節だと思う。市場で大声で話す女性たち、額の汗を拭う中年の男性、はにかんで笑う少女、路地に座ってお喋りする老人たち。歴史や体制という大きなうねりの中で、しなやかに強かに生きるアジアの人々が私の目の前に現れる。ドラマティックな一節だ。

読後、自分がこのアジアの民の一員だということが誇らしくなる。

 

最近、岸本葉子著の『できれば機嫌よく生きたい』を読んだ。

その中でボーダーインクから出版されている宮里千里著『シマ豆腐紀行 遥かなる〈おきなわ豆腐〉ロード』について触れられている章がある。

「軽妙で楽しい語り口ながら、底に感じられるのは、単一文化主義への抵抗だ」と。その通りだと思う。父の書く文章の核には、いつもその想いがあるのだと思う。

 

子どものころに父と旅した場所は韓国であり、バリ島であり、ベトナムであり、マレーシアであり、八重山であり、奄美であった。

旅先では決して、子どもの好きな場所へ行く父ではなかった。市場と祭りと路地が二人旅の定番であった。

 

父はアジアの祭りと市場の中にいる時、どこにいるよりも生き生きとする(ここ何年かは、毎晩、栄町市場で生き生きとしているようだ)。

ソウルであったか、釜山であったか忘れたが、市場でぐんぐん先に歩いていく父の背中を見失いそうになった私は、当時8歳だった。

きっと、父はアジアの市場にテンションが上がっていたことと、目的地に到着したという喜びで私の存在を忘れていたのではないかと思う。

 

父は認めないと思うが、旅に出るとそういうことがあった。

 

周りで聞こえてくるハングルは音でしかなく、韓国人特有なのか市場人特有なのか、パワフルを通り越したパワー溢れる雰囲気が私をかえって不安にさせた。父の背中が一瞬見えなくなるたび、すぐに背中を見つけようと必死だった。このままでは、異国で迷子になってしまう、と不安で泣き出してしまいそうだった。

 

すると、1人の男性が私の腕を掴んで引っ張った。今思うと、大丈夫か?と言ったのかもしれないし、見慣れない小さな女の子が1人で不安そうにしているのを心配してくれたのかもしれない。

 

しかし、私は咄嗟にその男性に「バカ!」と大声で叫んでいた。もう、すでに見えなくなっていた父が怖い顔で戻って来た。

 

「韓国の人は、日本語がわかる人も大勢いるんだよ!」と怒られた。

 

謝る父と苦笑いした男性の姿をなんとなく覚えている。

娘を置いて勝手にどんどん進んでいく父が悪いのではないか、私は誘拐されそうになったかもしれないんだ、と思うと、恐怖と悔しさで涙が溢れそうになった。

 

その後、父がなぜ、あんなに怒ったのかは中学校・高校の歴史を勉強するうちにわかっていく。

私の発した「バカ!」という一言は、同じアジアの民として許せない一言であったのだろうと思う。

 

ただただ不条理に感じていた出来事であったが、今では父が怒ったことも納得できる。

 

『アコークロー』で、「韓国することの意味」という文を見つけた。

 

娘からすれば、食事面では大変だっただろうが、市場のオバさんたちのケンカ、国境を越える巨大な荷物、ユーラシア大陸のはしっこに立ったことがある、というようなことをいつか想い出してもらえればそれでいい。

 

想い出した。と、父に言いたい。

 

その後も父と韓国すること、数回。高校生時代、成年時代。その度に、私の心に刻まれる出来事があった。

悔しいような気もするが、父との旅でいつも私は成長するのだ。

 

それは、また別の機会に聞いてほしい。

 

(旅先では、今でも先へ先へと歩いていく父)

 

宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。

メルマガ『宮里小書店便り』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年05月13日

ほんとーく 宮里綾羽(第2回)

 

 

『アコークロー』の「娘、ピース・ボートするの巻」の章で父はこう書いている。

 

 

 日頃、娘は家庭内においては中立路線ではなく、明らかに母親寄り路線である。だが、いざ母親が長らく旅行や研修などで不在という場合には、手のひらを返すように父親寄り路線に切りかえる。見事なほどの変わりようであるが、娘は娘なりに「おかあさんがいないときは、おとうさんとくっついておこう」とみえみえの接近策を見せてくる。

 

当たり前である。

もう一度言いたい。当たり前である。

三人家族で母親が不在のとき、父親に頼らない保育園児がいるのだろうか?

 

『アコークロー』で父はこうも書いている。

 

 子供と接する時間の少ないボクにとっては、旅行先で二十四時間いっしょにすごすという機会は無理してもこさえる必要がある。

 

そう、父とは旅先では寝食をともにしているが、日常生活ではほとんど母と2人暮らしみたいなものだった。父が家にいる時間はとーっても少なかった。

 

保育園の年長さんのときの話だ。

母が2週間ほど、アフリカ旅行で家を不在にするという。

しばらく父と2人暮らしと聞かされた私の動揺、絶望にも似た感情。

なぜ、そんなに動揺したかというと、実は、保育園の年中さん時代にも父と2人暮らしを経験していたのだ。

その時、母は確かタイ山岳部へ行くと言っていた。

 

料理が上手で、保育園のお弁当の日に、今でいうキャラ弁を色鮮やかにつくってくれた母。お弁当にはいつも手作りのお菓子がついてくるほどの徹底ぶり。私は母が持たせてくれるお弁当がいつも自慢だった。

 

母が不在の間、不幸なことに保育園のピクニックがあった。

 

朝、父が私の目の前でお弁当を作る!と言った。淡い期待を胸に父の姿を見つめる。すると、父が大きなどんぶりにこれでもかというほど、白飯をぎゅうぎゅうに押し込め、白飯の真ん中に素手でぐりぐりと穴を開けた。そこに、今食べた朝食の卵焼きとチャンプルーらしきものを突っ込んだ。その上に白飯で蓋をして、手で握っている。おおきな握り飯だ。

 

それを私に差し出し、「今日のお弁当」と言った。

その日のピクニックの記憶は、ない。

 

 

話を戻す。保育園年長さんの時も、再び不幸に見舞われた。父と2人暮らしの間に保育園の学芸会が重なったのだ。

学芸会が始まる前に、私はシクシクと泣き出してしまった。

保育園の先生は、母親の不在を嘆いていると思ったのか、「大丈夫よ。お父さんもおばさんたちも見に来ているよ」と励ましてくれる。でも、そうではないのだ。そうではなくて、母が来ないことは、もう諦めたとして。

 私が泣いたのは、母が不在の寂しさではなく、みんなと違う服装が恥ずかしかったのだ。

クラス全員で歌う最後の合唱。みんな、白いシャツに黒いズボンかスカートを着用している。

しかし、その日の朝、父は母が用意した白いシャツを探せなかった。というか、探さなかった。

「ないなー。もう、ないから、これを着なさい」

父に言われるまま、服を着た。

旅先での父と違い、家での父は実に諦めの早い父であった。

いざ舞台に上がる直前、私はクラスメイトとの服装の違いに戸惑い、悲しくなったのだ。

その時の写真がある。

爽やかな白いシャツで堂々と歌うクラスメイトに混じり、Tシャツの私が泣きっ面で口を小さく開けて歌う姿が写っている。Tシャツには、両手を大きく広げたミッキーが私と正反対の笑顔で笑っていた。

 

 

「旅先での父と母。偶然同じような服装です」

 

 

 

 

宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
20144月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
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2015年04月27日

ほんとーく 宮里綾羽(第1回)

 

 

 

 

『アコークロー』と私

 

 

宮里綾羽

 

 

今回、ボーダーインクからいただいたお題は、「自分が登場する本の紹介」。

ということで、私は宮里千里著の『アコークロー』を紹介する。というか、この本しかないのです。

著者の個人誌を束ねた『アコークロー』。沖縄、韓国、ベトナム、インドネシア、、、断固アジアにこだわった著者がアジアをあっちゃーあっちゃーした本だ。

 

 

 『アコークロー』とは、夜と昼の間の一瞬のしじまを指すものだそうだ。ふむふむ。

「宮里千里の出した本の中で一番よいタイトル。一番面白い本だ!」と断言したのは、宮里千里の妻、宮里A子だが、娘の私にとって、この本はあまり面白くない本だった。

小学校の高学年という多感な時期に出版された『アコークロー』には、娘がとても自由奔放に、時にリキランヌーと描写されている。しかも、しかもだ、「ユーリキヤーフージーのリキランヌー」だって。ひどい。

娘の名誉のために言うと、ユーリキヤーフージーしたことはありません。リキランヌーであることを恥じたことがないのだから。

ということで、自分の恥部が公にされているのが耐えられず、実は最後までちゃんと読んだことがなかった。

もしかしたら、「フユクサラー」と書かれているかもしれないし、「ユグリハイカラー」と書かれているかもしれないと思うと、なかなか読む気になれなかった。

実際、自由に育ってきたことに間違いはないが、全部が父親主観で書かれているのは納得できん!と子どもながらに思ったものだ。あくまで宮里千里の主観で書かれている文章であって、私の主観とは違うのだ!どぅー。

そんなわけで、今回はじめて『アコークロー』をちゃんと読んでみた。

すると、父親の主観と娘の主観が珍しくハマった場面があった。

 

 父と七歳の私のベトナムでの出来事だ。

父と行く旅先はディズニーランドでもなく、リゾート地でもなく、いつも東南アジアの路地だった。

ベトナムでは街中に戦争の傷跡があった。手のない人、足のない人、手足のない人。

私は怖くて、父のTシャツの裾を掴んで隠れて歩いた。今でも、あの道を歩いた時のとてつもない不安と恐怖を思い出すことができる。

父は私の手を振りほどき、通りの向こうに横たわる男性を見た。

そして、彼の右手に握られた缶にお金をいれて来なさい、と私に命じた。

男性には左手がなく両足もなかった。スケボーの上に小さな体を横たえ、埃っぽい歩道の真ん中で物乞いをしていた。

嫌だ、と私は言った。一人で彼にお金を渡しに行くのが怖くて仕方なかったのだ。

「行きなさい」と厳しい口調で父が言う。

とても不条理な気がして抵抗したかったけど、いつもと違う父の雰囲気が怖くて従った。

急いで戻ってきた娘に父は一言も声を掛けなかった。私も父に何も言えなかった。

それまでもその後も、父に命令されたことはなかったと思う。

これは、私の人生の一番最初に起こった強烈な出来事だ。

今まで誰にも話したことがなかった出来事。

 

 

 『アコークロー』には、こう書かれている。

 

「いきなり、あまりにもヴェトナムすぎて息を飲みこんでしまうような光景が現れた。アメリカが、連合国としてのフィリピン・オーストラリア・韓国、更にはタイ、そして日本・沖縄が蹂躙しつくしたヴェトナムの姿が眼の前に現れた。唯一残された右手で空きカンを高く突きだしている。哀願するわけでもない、ただ無表情に。もう使うこともあるまいヴェトナム通貨ドンのあり金全部を娘に持たせた。娘はベソをかいた、「こわい」とも言った。それはそうだろう。「もうベトナムはいやだ」、とうとう泣きじゃくってしまった」

 

 偽善とか施しだとか、そう思う人がいたら、それも本当かもしれない。でも、父はそういうものが大嫌いだ。それは家族が一番わかっている。

 

 では、なぜあの時、男性にお金を渡したのだろう。

父も怖かったのかもしれない。ショックだったのかもしれない。

そして、娘にこの情景を絶対忘れさせまい、そう思ったのかもしれない。

父があの日、娘に「行きなさい」と突き放したこと。

それは、今でも娘を形成する一番大切なものになっている。といつか父に話したいのだが、まだ話せないでいる。

 

 

宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。

メルマガ『宮里小書店便り』

 

2014年10月24日

ほんとーく 池城かおり(第3回)

 

 

世田谷区の桜丘図書館は、私が宮古島以外で初めて出会ったトショカンです。進学のための引っ越し作業が少し落ち着いた頃、近所に区立図書館があると知って出かけたのでした。

 館内に足を踏み入れたときの衝撃といったら。それまでの人生で見たことない冊数の本、勉強をしている人たちでいっぱいのテーブル・・・・。瞬時にいろんなことが頭をかけめぐった後、言葉が口を衝いて出ました。「豊かさ、ってこういうことなんだ」

 

 

 今思えば、地域分館という比較的規模の小さな図書館に驚くってどんだけ田舎者よ、と苦笑いするしかありません。(後日でかけた中央図書館にまた驚いた、というのは想像に難くなく)

 

 

「豊かさ」との意味を、資本主義社会の価値観に照らした物質量の多寡におくつもりはなく、私が思いを巡らせたのは、その背後に感じられた精神性です。図書館はヒトの営みの副産物。勝手に生えるのではありません。作ろうと思った「誰か」、行動を起こした「誰か」の存在を、そのような「誰か」を育んだ地域の歴史、文化の土壌の豊穣さを想起したのです。それは翻って、生まれ育った故郷の社会へ客観的な眼差しを向けることになりました。初めて、子の親離れに近い感覚を故郷に抱いた瞬間でもありました。(帰郷後、私なりに気持ちの整理ができました。そのことは沖縄県図書館協会誌の寄稿文に書きました→こちら

 

所変われば、トショカンも変わる。世田谷区にはいくつも分館があったので(現在は15館)、本を借りながら巡るのが楽しみになりました。中央図書館は特にお気に入りで、大学の夏休みに窓口のアルバイトをさせていただいたこともありました。偶然、中学時代からの同級生に出くわし、驚いた表情で「お前ここで何してるか」とみゃーく訛りで言われたことは楽しい思い出の一つです。

 

 

 図書館巡りの趣味はさらに広がって、渋谷区、目黒区、品川区、千代田区、神奈川県の川崎市、大学図書館、国会図書館、六本木ヒルズライブラリー、せんだいメディアテークのほか、仕事で海外へ行く機会をいただけたときにはオーストリア国立図書館、フランスのポンピドゥー・センターなどへ行きました。近年は、沖縄本島にある公共図書館も機会を見つけて訪ねています。いつかゆっくり世界中の図書館旅にでかけられたら幸せです。

 

 

 ありんこ文庫は、地域に関わり貢献したいと願う社会人としての私、スキスキ♥トショカンなお友達(0歳から)を増やしたいパーソナルな私の気持ちがひとまずの土台となって始まっています。まだ芽吹いたばかりですが、宮古島市に生まれ育つすべての子ども達にアクセスできるよう、これから変化しなければなりません。よく視て、よく聴いて、ふさわしい道を辿りたいです。

 

 

 

池城かおり

1979年。宮古島市平良生まれ。

宮古高校、東京農業大学応用生物科学部卒。

日本科学未来館に勤務後、2008年に帰郷。

現在は絵本図書室ありんこ文庫代表、NPO美ぎ島アーカイブ代表を務める。

宮古島市立図書館協議会委員、沖縄県立図書館協議会委員。

http://ikeshirokaori.tumblr.com/

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2014年10月01日

ほんとーく 池城かおり(第2回)

 

 

 

 

 もちろん、小学校の学校図書館も好きでした。とはいえ休み時間は鬼ごっこやカード引き、ゴム飛びなど目いっぱい遊んだ記憶と並列しているので、いつ通っていたのか、今思うと不思議です。その頃には好きなジャンルがはっきりしていて、読んでいたのはもっぱら自然科学です。とくに「あかね書房」の「科学のアルバム」シリーズにハマりました。生き物や天文など幅広いテーマを数十巻にわたって扱っていて、子どものコレクター欲を刺激するラインナップ。写真が多用され、易しい文章で読みやすく適度なページ数でしたので、飽きや挫折もなく全部読みました。ウチでは買ってもらえなかった学研の「科学」を学校図書館が購読していたのは最高に嬉しかったです。毎月、全学年に目を通していました(このあたりで培った知識や好奇心は、のちに20代で働くことになる科学館で、来館者(とくに小学生)とのコミュニケーションに多いに役立ちました)。高学年になると物語系にも手を伸ばすようになりました。ルパン、ぽっぺん先生、ルドルフ・・・懐かしく思い出します。でもタイムマシンがあれば、もうちょっとカワイイ本も読んでみてね、と伝えたいです。

 

 しかし、中学に入学すると状況が変わってきます。期待いっぱいに入ってみた学校図書館に並ぶ本はずっと大人びて見えて、突き放されたようなショックを覚えました。星新一さんの文庫本だけが心の拠り所で、ほかは一切読むことができなくなっていました。そうこうするうちに嵐の中2に突入。親にも先生にも反発ばかりで、読書なんてかっこわるい、トショカンなんて行かない(○`ε´○)、という機嫌の悪い子でした。恐ろしくもったいないことをしたものです。あの頃にしか出会えなかった本があったはずなのに・・・。さて、中3のある日のことです。何気なく買い求めた海外作家の小説が気に入り、ほかの作品も読みたくて当時の沖縄県立図書館宮古分館にでかけました。海外作家の作品が分類された二階は人気がなく、しんと鎮まった書棚へ冒険するような気持ちで奥へ進みました。棚には、その作家の作品がずらりと並んでいました。人気作家だったのでしょう。でも私は自分のために用意してもらったような嬉しさでいっぱいでした。

 

(旧沖縄県立図書館宮古分館 現在は宮古島市立図書館北分館)

 

 

 それまでの嵐はウソのようにケロリとして、素直にトショカン通いが再び始まりました。書店の一般書コーナーも気負いなくのぞくようになりました。相変わらず科学は好きで、ますます憧れが強くなっていました。ただ、「好き」と「理解」は別で、10代の私にとってはポピュラーサイエンス本もまだまだ難解で敷居の高い存在ではありましたが、本を手に持つことや文字を追うだけで充分楽しい気持ちでした。

 

 当時はネットもなく、島の子どもにとっては、本にまつわる情報は書店か図書館で得られる限りとなります。私は書棚にある世界の中だけに自分の好奇心を向けていましたし、それ以外の世界のことを全く想像していませんでした。大学進学のために上京し、生活の場が変わったことが、トショカンと自分、生まれ育った地域について考える大きなきっかけになりました。

 

(ありんこ文庫の書棚<小学生用>)

 

 

 

池城かおり

1979年。宮古島市平良生まれ。

宮古高校、東京農業大学応用生物科学部卒。

日本科学未来館に勤務後、2008年に帰郷。

現在は絵本図書室ありんこ文庫代表、NPO美ぎ島アーカイブ代表を務める。

宮古島市立図書館協議会委員、沖縄県立図書館協議会委員。

http://ikeshirokaori.tumblr.com/

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2018年06月14日
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2018年05月18日
「ボーダーインク図書目録2018年夏」を制作いたしました。多くの新刊、そいて既刊本が約200点掲載されています。ご希望の方はボーダーインクまでお問い合わせください。